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「探究しなさい」という矛盾――探究が制度になったあとで

最近、「探究」という言葉を聞かない日はありません。

学校でも、塾でも、フリースクールでも、地域活動でも、企業との連携でも、「探究」が掲げられています。

地域に出れば探究。職業体験をすれば探究。好きなことを調べれば探究。大学とつながれば探究。子どもが自分でテーマを決めれば、それも探究。

ここまで広がると、少し立ち止まって考えたくなります。


私たちは、探究という言葉を使いすぎていないでしょうか。


私はこれまで長く探究学習に関わってきましたし、その可能性を強く感じています。

だからこそ、最近の「探究」という言葉の広がり方には、少し危うさも感じています。

探究を否定したいわけではありません。

むしろ逆です。


探究を大切にしたいからこそ、探究そのものを批判や検証の対象から外してはいけない。

いま必要なのは、「もっと探究を」という掛け声だけではなく、

探究は誰に有効なのか。何を学ぶために有効なのか。どのような条件で有効なのか。そして、どこでは有効ではないのか。

そうした問いを、探究そのものに向けることではないかと思っています。



「良いもの」になった瞬間、問いにくくなる

教育の世界には、ときどき強い言葉が現れます。

その言葉を掲げているだけで、少し先進的で、少し子ども思いで、少し時代に合った教育をしているように見える言葉です。

社会全体でいえば、「エコ」や「SDGs」にも、どこか似たところがあったように思います。

もちろん、環境問題も持続可能性も重要です。

問題は、その言葉に「良いもの」という価値が強く付着したときです。

「環境にやさしい」と聞けば、それが本当に環境負荷を減らしているのかを確かめる前に、善いものだと感じてしまう。

「SDGsに取り組んでいます」と聞けば、その取り組みが何を改善し、何を改善していないのかを問う前に、肯定的な評価が生まれる。

言葉が理念を表すものから、善良さを証明する印章のようなものに変わっていきます。


探究にも、いま似たことが起きているように感じます。

「探究的な学びです」

と言われると、それだけで従来型の授業よりも望ましいように聞こえます。

「子ども自身が問いを立てます」

と言われると、それだけで主体的な教育のように感じます。

しかし、本来、教育の方法であるならば、

本当に効果があったのか。誰に効果があったのか。何を身につけるうえで有効だったのか。別の方法と比べてどうだったのか。その方法によって、かえって学びにくくなった子はいなかったのか。

と問われるべきです。


探究も、その例外ではありません。

むしろ科学的な態度とは、自分が信じたいものほど疑うことではないでしょうか。

「これは良いものだから」という理由で、批判や検証の外に置かれた瞬間、それは教育方法というより、一種の信仰に近づいていきます。



方法が価値に変わるとき


教育方法

探究は、本来、学ぶための一つの方法です。

問いを立てる。調べる。観察する。人に聞く。仮説を持つ。試す。結果を見て考え直す。

こうした学び方には、大きな価値があります。

しかし問題は、方法だったはずの探究が、いつの間にか教育上の価値そのものになりつつあることです。

本来であれば、

「この子に何を学んでほしいのか」

「いま、この子には何が必要なのか」

という問いが先にあるはずです。

そのうえで、

教える。読む。覚える。反復する。体験する。対話する。調べる。探究する。

という方法を選びます。

ところが、「探究は良い教育である」という前提が強くなると、この順番が逆転します。


まず、

「探究をさせる」

ことが決まる。

そのあとで、

「では、何を探究させようか」

と考える。

一見すると小さな違いですが、ここにはかなり大きな転換があります。

子どものために方法を選ぶのではなく、方法を成立させるために子どもの活動を組み立て始めるからです。


方法が目的になる。

そして目的になった方法は、自分の限界を見失いやすくなります。



優れた方法ほど、使いすぎる

これは探究だけの問題ではありません。

人間は、よく効く道具を見つけると、その道具をもっと広い場所で使いたくなります。

実際に成果が出た。

子どもが変わった。

授業が面白くなった。

だから、

「これにも使えるのではないか」

「あれにも使えるのではないか」

と適用範囲が広がっていきます。

そのこと自体は自然です。

ただ、適用範囲が広がり続けると、あるところから概念の輪郭が崩れ始めます。

遊びも探究。旅行も探究。職業体験も探究。地域交流も探究。失敗も探究。対話も探究。好きなことをするのも探究。

もし、ほとんどすべてが探究なのであれば、

では、探究ではない学びとは何なのでしょうか。


何にでも当てはまる概念は、一見すると強そうに見えます。

しかし実際には、何も区別できなくなっています。

言葉は、境界を持つから意味を持ちます。

探究という言葉が、あまりに多くのものを包み込めるようになると、やがて「探究」という言葉自体が、何を指しているのか分からなくなります。

そして私は、ここに一種の賞味期限の問題も感じています。

いま、教育に関わる多くの人が「探究」という言葉に飛びついています。

しかし、便利な言葉ほど消費も早い。


何でも探究と呼び、あらゆる教育活動を探究として語り尽くしたあとで、数年後には、

「また探究か」

と飽きられてしまうかもしれません。

そのときに捨てられるのは、流行語としての探究だけではありません。

本当に意味のある探究的な学びまで、一緒に古いものとして処理される可能性があります。

だからこそ、探究を守りたいのであれば、むしろ使いすぎない方がいいのかもしれません。



「探究しなさい」という矛盾


探究しなさい

さらに、いまの探究には別の問題があります。

探究は、すでに制度になっています。

ここに、もっと根本的な矛盾があります。

探究とは本来、

何かを見てしまった。何かに引っかかった。どうしても気になった。知ったことで、かえって分からなくなった。

そういうところから始まる営みではないでしょうか。

つまり探究には、本質的に偶発性があります。

いつ始まるか分からない。

何から始まるか分からない。

どこへ向かうかも、最初から完全には分からない。

ところが、それを制度にすると、

「木曜日の5時間目は探究です」

となります。


全員が同じ時間に探究を始める。

テーマを決める。

問いを設定する。

調べる。

まとめる。

発表する。

評価される。


すると、本来は、

問いが生まれたから探究する

はずだったものが、

探究の時間だから、問いを生み出さなければならない

に変わります。


自発性を育てるために、自発性を要求する。

主体性を育てるために、「主体的になりなさい」と指示する。

問いを大切にするために、「来週までに問いを決めてください」と締め切りを設ける。


ここには、かなり深い逆説があります。

制度は、偶然を扱うことが苦手です。

年度があります。

時間割があります。

評価があります。

成果物があります。

だから本来は偶発的だったはずの探究を制度にすると、制度はどうしても探究を「再現可能な手順」に変えようとします。

テーマ設定。情報収集。整理・分析。まとめ・表現。

もちろん、こうした型が役立つことはあります。

しかし、型をなぞることと、本当に何かを知りたくなることは同じではありません。


探究を制度化すればするほど、探究らしさを制度が削っていく。

ここに、探究教育が抱える難しさがあるように思います。



問いを持たない自由はないのでしょうか


自由な遊び

子どもたちは、

「あなたの興味は何ですか」

「社会課題を見つけましょう」

「自分だけの問いを考えましょう」

と求められます。

しかし、中学生や高校生が、

「いまは特にありません」

でも、私はまったく問題ないと思っています。

むしろ自然なこともあります。

世界をまだ十分に知らなければ、何を疑えばよいのかさえ分かりません。

問いは、無知から直接生まれるとは限りません。

むしろ、知識が増えたからこそ初めて見える矛盾があります。


歴史を知る。

数学を習う。

本を読む。

知らない仕事を見る。

人に会う。

旅に出る。

魚を触る。

失敗する。

遊ぶ。

退屈する。


そうしたものが何年も蓄積したあとで、突然、

「あれ?」

と何かがつながることがあります。

問いとは、しばしばそれまでの経験の沈殿から生まれるものです。

しかし制度には年度があります。

制度は、問いが生まれるまで何年も待ってはくれません。

そこで、教育は少しずつ、

問いを待つことから、問いを生産することへ

変わっていきます。


問いは、提出物になります。

テーマは、期限までに決めるものになります。

そして、問いを持っていない子どもまで、

「問いを持てない自分には主体性がないのではないか」

と感じるかもしれません。


本来、探究は子どもを自由にするためのものだったはずです。

それが、別のかたちの「こうあるべき」を子どもに課しているとしたら、かなり皮肉なことです。



「探究公害」は、制度の外側に現れる

最近、「探究公害」という言葉があります。

高校生から大学教員や研究者、企業、自治体などへ、大量の質問や取材依頼が送られ、受け手の負担が大きくなっているという問題です。

これを、


「最近の高校生はマナーが悪い」

という話にしてしまうと、本質を見失います。

むしろ制度の問題として見た方がいいと思います。

「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉があります。

探究公害にも、似た構造があります。

学校は、子どものために探究をします。

先生は、子どもを社会につなげようとします。

生徒は、授業で求められたから専門家に連絡します。

大学や企業、地域の人も、「子どもの学びのためなら」と協力します。

一つひとつの行為は、善意に基づいています。


むしろ、一人ひとりの立場から見れば合理的です。

しかし、それが制度として大量に、同時に、同じ方向へ動き始めると、そのコストを誰かが引き受けることになります。


大学教員が引き受ける。

企業が引き受ける。

地域の人が引き受ける。

先生が引き受ける。

そして、実は子ども自身も引き受けています。


「問いを持ちなさい」

「主体的でありなさい」

「あなたらしいテーマを見つけなさい」

という要求を、です。


だから探究公害は、単なる迷惑メールの問題ではないと思います。

もっと広く言えば、

探究という善意を大量に制度化したとき、その副作用やコストがどこへ押し出されるのか

という問題です。


公害という比喩が示しているのは、誰か一人が悪いという話ではありません。

個々の行為は正しく見えるのに、それが集積した結果として、別の場所に負荷が現れる。

その構造を見る必要があります。

そして、その構造そのものを疑うことこそ、本来もっとも探究的な態度ではないでしょうか。



まちかど学舎では、何でも探究にしません

まちかど学舎では、子どもたちとよく外へ出ます。

魚を捕まえることもあります。

科学館へ行くこともあります。

公園で遊ぶこともあります。

街を歩くこともあります。


でも、それらをすべて「探究学習」と呼ぶつもりはありません。

魚を捕まえて、

「楽しかった」

で終わっていい。

科学館へ行って、

「プラネタリウムがすごかった」

で終わっていい。

公園で遊び続けて、そのまま帰ってもいい。

大人は、子どもの経験を教育的に回収したくなります。

「そこから何を学んだの?」

「今日の問いは何だった?」

「振り返って言葉にしてみよう」

もちろん、それが有効なときもあります。


しかし、すべての経験がすぐに言語化される必要はありません。

すべての体験が成果物になる必要もありません。

すべての遊びを「学び」に翻訳する必要もありません。


経験には、経験の価値があります。

遊びには、遊びの価値があります。

勉強には、勉強の価値があります。


それぞれを別のものとして認めた方が、むしろ子どもの経験を丁寧に見ることができます。

何でも探究という大きな袋に入れてしまう必要はありません。



探究は、「起こす」ものではなく「起こる」ものでもある

一方で、魚を捕まえている子が、

「角に追い込んだ方が捕まえやすい」

と気づくことがあります。


では、なぜ角なのか。

魚は人からどう逃げるのか。

水の流れは関係しているのか。

やり方を変えるとどうなるのか。

観察する。

試す。

失敗する。

また考える。


そこには、明らかに探究的な動きがあります。


でも、それは大人が最初から用意した「探究の問い」から始まったわけではありません。


子どもと世界の間に、何かが起きた。

その引っかかりを追いかけているうちに、結果として探究になった。

そう考えると、探究には二つの側面があるのかもしれません。

教育方法として意図的に設計できる探究。

そして、意図せず始まってしまう探究。

私は、後者もかなり大切だと思っています。

そして後者は、予定通りには起こせません。

だから必要なのは、探究を増やすことだけではなく、探究が起こる余白を残すことです。



「探究の時間」より「探究が始まってしまう余白」

まちかど学舎で守りたいのは、「探究の時間」そのものではありません。

むしろ、

探究が始まってしまう余白

なのだと思っています。


今日は算数を教える。

今日は本を読む。

今日は遊ぶ。

今日は外へ出る。

今日は誰かと話す。

今日は何も起こらない。

それでもいい。


そして、その中で何かに引っかかったときには、少し立ち止まって、一緒に追いかけてみる。

探究を予定するのではなく、探究が生まれる可能性を残しておく。

そのためには逆説的ですが、

探究ではない時間を守らなければなりません。


教えてもらう時間。

覚える時間。

繰り返す時間。

黙って読む時間。

遊ぶ時間。

ぼんやりする時間。

誰かのやり方を真似する時間。

まだ何の問いも持っていない時間。


それらすべてを「実はこれも探究です」と回収してしまわない。

探究ではないものを、探究ではないものとして残しておく。

そうして初めて、「これは探究だ」と言えるものの輪郭も残るのだと思います。



探究そのものを、探究できるか

私は探究学習が好きです。

その可能性も信じています。

だからこそ、探究を無条件には信じたくありません。

探究は誰に有効なのか。

どの年齢で有効なのか。

どんな知識が前提として必要なのか。

どこまで大人が介入した方がいいのか。

探究を制度化することで何が失われるのか。

探究が向いていない子はいないのか。

ほかの方法と比較して、本当に優れているのか。

こうした問いは、まだまだ検証されるべきです。

「探究は良いものだから探究する」

というところで思考を止めてしまえば、それこそ探究とは正反対です。

探究を掲げるのであれば、

探究そのものもまた、批判と検証に開かれていなければならない。

私は、そこがかなり重要だと思っています。


まちかど学舎では、探究を目的にはしません。

今日は教える。

今日は練習する。

今日は遊ぶ。

今日は待つ。

そして、必要なときには探究する。

方法は、目的に従う。

子どもを、方法に従わせない。


いま探究という言葉が大きくなりすぎているからこそ、そのくらいの距離を取っていたいと思っています。

探究を増やすことよりも、

探究ではないものを、探究ではないまま大切にできること。

そして、

探究を疑う自由を、探究の中に残しておくこと。

もしかすると、それこそが、いま私たちに必要な「探究」なのかもしれません。

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