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探究学習と評価――フーコーを参照しつつ、探究の現場から


評価

探究学習が広がるにつれ、「評価をどうするか」という問いは以前にも増して切実になってきました。とくに非認知能力や探究的な姿勢を評価しようとすると、数値にしにくい、評価がぶれやすい、そして何より手間がかかる――こうした現実にすぐ直面します。

評価はつい「測定の技術」として語られがちです。いかに客観的か、いかに公平か、いかに説明できるか。もちろん大切な観点です。ただ、その枠組みだけで考えてしまうと、探究の評価がなぜ難しいのかが十分に伝わりません。探究は過程や文脈に大きく依存する学びであるため、測定や比較を前提とした評価とは噛み合いにくいからです。さらに言えば、評価は単に測る行為にとどまらず、学習者をある仕方で可視化し、位置づけ、語ってしまう行為でもあります。そのため、評価の仕方そのものが、探究のあり方に直接影響してしまいます。



1.フーコーと評価

ここで参照したいのが、フランスの思想家ミシェル・フーコー(1926–1984)の視点です。


Michel Foucault

フーコーは歴史をたどりながら、私たちが当然だと思っている制度や知の枠組みが、どのように作られてきたのかを分析しました。とくに権力を「上から押さえつける力」だけとしてではなく、学校・病院・刑務所などの日常的な制度の中で、人を見える化し、分類し、自己管理へ導く仕組みとして捉えた点で知られています。


フーコーの議論で教育と特に関係が深いのが、「試験(examination)」という装置です。フーコーは「試験(examination)」を、〈人を見える存在にし、その差異を測定し、記録として固定することで、規範に結びつける技術〉として位置づけました(Foucault, Discipline and Punish)。評価は中立な測定ではなく、人を理解し管理するための知の装置でもある、という指摘です。試験は能力を測るだけでなく、学習者を観察可能にし、基準や平均との差として比較可能にし、記録として蓄積し、望ましいふるまいへと導きます。ここで生まれるのは点数そのものというより、「正常/逸脱」「ふつう/問題」といった区分の力です。さらに重要なのは、こうした区分が外から押し付けられるだけでなく、学習者自身の内面に入り込み、「どう見られるか」「期待に沿っているか」を自分で点検させるようになる点です。評価が厄介なのは、やがて私たちの中に「仮想評価者」として住み着き、学びの動機にもなりながら、同時に学びの可能性を狭める力にもなりうるところにあります。


フーコーはこの状態を説明するために、「パノプティコン」という比喩を用いました。


パノプティコンの設計図


もともとは刑務所の建築構造を指す言葉ですが、その核心は「常に見られているかもしれない」という感覚が、人に自己管理を促す点にあります。実際に見張られているかどうかは重要ではありません。見られている可能性がある、という状況そのものが、人の行動を規律化していきます。

教育に引きつけて考えると、これは決して特殊な話ではありません。テストや成績、所見、評価基準が存在する環境では、教師の目が向いていない場面でも、学習者は「これは評価されるか」「期待に沿っているか」を先回りして考えるようになります。評価は外から与えられる判断であると同時に、内側で作動する自己点検の仕組みへと変わっていきます。

このとき評価は、学習者を押さえつける単なる監視装置になるとは限りません。うまく働けば、学びの方向づけや安心感を与える役割も果たします。ただし同時に、評価の視線が強く、固定的であるほど、問いの立て方や試行錯誤の幅は狭まりやすくなります。「評価されやすい振る舞い」へと学びが収束していくからです。

フーコーの議論が示しているのは、評価が善か悪かという単純な二分ではありません。評価とは、人を可視化し、比較し、内面化させる力を必然的に含んでいる。その力を自覚しないまま使うと、評価は知らず知らずのうちに学びを管理する装置として強く働いてしまう、という警告です。

たとえば、探究の場面でも「評価されやすい問い」を選び、「うまく見える結論」に寄せ、試行錯誤よりも提出物の体裁を優先してしまうことがあります。評価が学びを支えるはずが、学びが評価に合わせて収束していく現象がたびたび発生します。


2.評価はなくせない、ではナラティブな評価は?

だからといって、「評価をなくせばよい」とは簡単に言えません。学びを前に進めるには、何を続け、何をやめ、次に何を試すのかを判断する必要があります。つまり評価は程度の差こそあれ不可避です。問題は、評価をゼロにすることではなく、評価が「学びを閉じる力」として働くのか、それとも「学びを更新するための仮の判断」として働くのか、という点にあります。


この文脈でしばしば語られるのが、ナラティブ評価です。数字ではなく文章で、行為や変化を言葉で描写する方法です。ナラティブ評価には可能性があります。数値のように短く要約しにくく、単純に比べにくく、確定値として持ち運びにくいぶん、評価が目的化しにくく、学びの途中に留まりやすい面があるからです。

ただし、ナラティブ評価にも落とし穴があります。書き手の言葉が強い権力になりうること、読む側にも解釈する力が要求されること、そして現場がとにかく忙しいという現実です。文章で評価を書くには時間と体力が必要です。数値評価が「楽」に感じられるのは、集計や比較に向くよう設計されているためで、そこ自体が悪いわけではありません。問題は、効率に向いた評価形式が、文脈依存で不確実さを含む探究の学びと衝突しやすい点にあります。


では、どうすればよいのでしょうか。大事なのは、恣意性や権力性を「完全に消す」ことを目指さないことです。それは現実的ではありません。代わりに、恣意性や権力性が暴走しないように、見える化し、分散し、確定させない工夫を入れることが重要です。たとえば評価の根拠をできるだけ事実に寄せて書きます(「主体性がある」ではなく「役割が不明瞭になった局面で提案した」など)。また、評価を一人の声にしないように、本人の振り返りや仲間のコメント、活動ログなども並べます。さらに評価を結論にせず、「現時点では」と暫定にし、応答できる余地を残します。こうした設計は、評価を絶対化させないための小さな歯止めになります。

ここで言いたいのは、評価や学校が「悪」だという話ではありません。評価が持つ力学を理解したうえで、学びを閉じない形で評価を設計できないか、という問題提起です。



3.まちかど学舎の実践では


まちかど学舎

まちかど学舎で探究を扱うときは、評価を「結果の判定」にしないことを大事にしたいと考えています。点数やランキングの代わりに、活動の記録や対話のログを残し、「何が起きたか」「前回から何が変わったか」「次は何を試すか」を短く共有します。評価をゴールに置かず、次の一手を決めるための途中経過の記録として位置づけることで、評価が目的化して探究が型にはまることを避けつつ、保護者や本人にも「いま何が育っているか」を具体的に伝えやすくなります。



4.ナラティブ評価の限界と、評価者の問題

最後に触れておきたいのは、ナラティブ評価の質が評価者のスキルや姿勢に強く依存するという点です。何を観察し、どの事実を切り取り、どの言葉を選ぶのか。そこには必ず判断が入り、その粗さや偏りは評価文に表れます。この点で、数値評価が持つ「誰がやっても同じに見える」という強みは否定できません。

ただし、評価者の能力に依存すること自体を欠陥とみなすべきかどうかは、慎重に考える必要があります。教育における評価が実践的・文脈的判断を含む以上、一定の属人性は避けられません。むしろ問題は、その属人性を隠してしまうことにあります。評価者の言葉が「中立」「客観」を装った瞬間、評価は強い権威として固定され、問い返しにくいものになります。

ナラティブ評価の現実的な可能性は、評価者の恣意や未熟さを消すことではなく、それを可視化し、開かれたものにする設計にあります。複数の観察記録を並べること、本人の言葉を評価文に含めること、評価を暫定的なものとして扱い更新可能にしておくこと。こうした工夫は力量差をゼロにはできませんが、「一人の評価者の読み」が最終的な物語になるのを防ぎます。評価者自身も学び続ける前提で、評価を完成形ではなく試行錯誤の途中に置き続けることが重要です。



5.民間の実践と学校現場をつなぐという視点

本稿で述べてきた評価のあり方は、現在の学校現場にそのまま全面的に実装できる万能な解決策ではありません。クラス規模、制度評価、教員の多忙さを考えれば、ナラティブ評価を中心とした丁寧な実践が難しい場面が多いことも事実です。ただし、だからといって、こうした実践が学校教育と無縁だとも言えません。

まちかど学舎のような民間の小規模な場が担える役割は、評価を「弱めた状態」で実験的に運用し、その限界や副作用も含めて蓄積することにあります。評価が配分や序列と強く結びつかない環境だからこそ、評価の恣意性や権力性を可視化し、どこまでなら学びを閉じずに扱えるのかを具体的に検証できます。この蓄積は評価を理想化するためではなく、学校現場において「どの部分なら移植可能か」「どこに無理が生じるのか」を考えるための参照点として機能しうるはずです。

まちかど学舎の強みは、学校教育の代替を目指すことではなく、学校現場と切断されない形で評価と探究をめぐる実践知を外部に開いていく点にあります。評価を理念や制度論にとどめず、運用として試し、その結果を学校と共有していくこと。その往復こそが、評価が学びを閉じる装置にならないための現実的な回路になると考えています。

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