【西洋の古典からたどる「探究学習」の源流】第2回 観察を“説明”に変える(アリストテレス)
- 山中裕太

- 5 日前
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更新日:2 日前

「すべての人間は、本性上、知ることを欲します。」(アリストテレス『形而上学』I 1, 980a21)
前回(第1回)はソクラテスを扱いました。問いを立て、言葉の意味を締め直し、入口を整える重要性に触れました。
ただ、入口が整っても、その先で探究が止まることがあります。問いは良い。活動もしている。けれど最後に残るのが「調べました」「学びました」だけになってしまい、質問に対して耐えられなくなってしまう。
この“詰まり”をほどく手がかりとして、今回はアリストテレスを扱います。アリストテレスは、問いのあとに続く作業――観察・分類・説明――に、骨格を与えた人です。
1.リュケイオンとは何か——「学校」以前の、公共の場所
アリストテレスが講義と研究の拠点にしたのは、リュケイオン(Lyceum)と呼ばれる場所です。古代アテナイ郊外にあった公共の体育場(ギュムナシオン)で、運動や軍事訓練だけでなく、議論や学びも行われる“場所”でした。
アリストテレスの学派が「逍遥学派(しょうようがくは)」と呼ばれるのは、ここで歩きながら(あるいは歩廊で)議論し、講義したという伝承に由来します。「逍遥」という言葉の響きが美しいですが、要するに、教室に閉じこもるより先に、外を歩き回り、目の前の現実を材料にして考える、という身ぶりがある。
探究学習との相性がいいのは、この点です。教科書の中で世界が完結しない。現物、現場、記録、言葉のずれ、説明の穴――そういう“雑さ”を、扱える形にしていく方向へ、自然と身体が向く。
2.「見た」だけでは、探究の成果になりにくい

探究でよく起きるのは、観察や調査が「たくさん集めること」で終わってしまうことです。現場に行き、写真や動画を撮り、メモを書き、資料も集める。けれど、情報はあるのに、うまく「解釈」ができない。
ここで、アリストテレスの冒頭の一節が効いてきます。彼は、人間が「知ること」を欲する証拠として、感覚――とりわけ視覚への愛着を挙げます。見ることは、役に立つからという理由以前に、見たいから見てしまうものです。確認しないと落ち着かない。そういう人間の偏りを、彼は自然なものとして受け止めています。
この視覚への依存は、彼の時代よりも、むしろ現代のほうが強いでしょう。スマホを開けば、政治も社会も人間関係も、ほとんどが画像や動画として立ち上がる。目に入らないものは、存在していないかのように扱われる。「見た」という事実が、そのまま「分かった」という感覚に変わってしまう。
では、なぜアリストテレスは視覚を重く見たのか。それは、視覚が差異を立ち上げる契機になるからです。
3.差異は、言語によって分節される

明るい/暗い、こちら/あちら、同じ/違う。私たちの目に映る世界は、最初からこうした区切りをもって現れているわけではありません。むしろ、経験のはじめには、世界は連続した流れとして立ち現れています。その流れの中に、区切りが立ち上がったとき、私たちははじめて「違い」としてそれを経験します。
ただし、その差異は、自然に転がっているものではありません。言語による分節を通して、差異ははじめて安定した輪郭をもつ。区別され、名づけられ、繰り返し使われることで、「同じもの」と「違うもの」が共有可能な形になります。
このことは、聖書の創世記にも象徴的に描かれています。光と闇が「分けられ」、そして「昼」「夜」と呼ばれる。この描写は、差異がすでに完成していて、あとから名前を貼るという話ではありません。区別され、名づけられるという言語的な分節の運動のなかで、世界がはじめて意味のある輪郭をもつ、という描かれ方です。

さらに象徴的なのが、動物の名づけの場面です。神が動物たちを人のもとに連れてきて、「人がそれを何と呼ぶか」を見守る。ここで行われているのは、単なるラベル貼りではありません。人が言語を用いて、どれとどれを同じ仲間として扱い、どこで区切るのかを引き受けること。言い換えれば、世界をどう分節するかが、言語に委ねられているという構図です。名づけとは、世界を支配する行為ではなく、世界を理解可能なかたちで引き受ける行為だと読むことができます。
発達の初期段階にある子どもにとって、世界はまだ細かく区切られていません。感覚や情動は豊かに経験されていても、それらがどのような違いとして整理されるかは、これから形づくられていく途中にあります。言語が少しずつ立ち上がり、使い分けが可能になるにつれて、世界は次第に区切られ、経験は色や濃淡をもつようになります。
余談ですが、ですからネガティブでもポジティブでも、驚きでも不安でも、すべてを「やばい」で表してしまうことには、やはり限界があります。便利な言葉ですが、一語ですべてを表せるということは、裏を返せば、世界の細かな違いが見えなくなるということでもあります。表現が多様であることは、気の利いた言い回しができるかできないかという表面的な問題に留まりません。言語が異なれば、世界の見え方や感じ方そのものが変わる。言葉が増えるというのは、知識が増えること以上に、感じ取れる世界の切れ目が増えることなのです。
差異が見え、言葉で切り分けられはじめると、私たちはそれをただ並べておくだけでは済まなくなります。
その違いが、どうしてそこに現れているのか。なぜ同じではないのか。説明しようとするその動きの中で、問いは自然と「なぜ?」の形をとりはじめます。
4.原因(aitia)とは何か——「なぜ?」に一つで答えない

「なぜ?」という問いは、探究にとって自然な流れです。差異が見え、言葉で切り分けられ、説明しようとしたとき、人は避けられず理由を探し始めます。ただし、ここで探究が浅くなることも少なくありません。理由を探し始めた瞬間に、「原因はこれです」と一つに言い切ってしまうときです。分かりやすい。でも、たいてい話が急に薄くなる。
アリストテレスが扱った原因は、こうした「結論を急ぐための原因」ではありません。ギリシア語の aitia は、犯人探しのための言葉ではなく、「そう説明すると筋が通る理由」という意味合いを含みます。原因とは、説明を成立させるための要素です。
そのためアリストテレスは、「なぜ?」に一つの答えを与えませんでした。代わりに、「どの種類の理由として説明しているのか」を問い直します。
そこで出てくるのが、いわゆる四原因です。
四つ並べると少し堅く感じられますが、探究の現場ではかなり実用的です。理由を一方向に固定せず、説明の仕方そのものを点検できるからです。
・質料因(材料):何でできているか。土台は何か。
・形相因(かたち):どんな構造・仕組み・ルールか。
・作用因(きっかけ):何が動かしたか。どこで変化が始まったか。
・目的因(行き先):何のためにそうなっているか。どんな機能を担っているか。
とくに扱いが難しいのが、目的因です。「何のために?」という問いは、熱を帯びやすく、理想論や正しさの押し付けに転びやすい。
しかし、アリストテレスにとって目的因は、説教のための道具ではありません。その現象が、社会や生活の中で、どんな機能を引き受けているかを問う視点です。
「学校は何のためにあるのか」この問いを、いきなり理念で語ると主観の言い合いになってしまい、着地点を見出しにくくなってしまいます。けれど、機能として分解すると話が進みます。評価の機能、居場所の機能、選抜の機能、ケアの機能。どれが過剰で、どれが不足しているのか。誰にとっての目的なのか。
目的因は、探究を感情から引き離し、構造へ戻すための視点でもあります。
5.アリストテレス的に、探究の失速を立て直す
ここからは、探究の現場でよく起きる「つまずき」を、アリストテレス的に見直してみます。
【場面1】情報は集まったのに、「結論」が立たない
資料やデータ、インタビューの内容は揃っているのに、最後が「分かりました」「学びました」で終わってしまうことがあります。この場合、情報量が不足しているわけではありません。違いが整理されていないことが原因です。
集めた情報をそのまま並べるのではなく、比較の形に置き直します。AとBを比べる、条件ごとに分ける、時系列で整理するなどです。そうすると、どこかに違いが現れます。その違いがどんな条件で生じているのかを、一文で言葉にしてみます。一つに絞ることが大切です。
探究では、情報の量よりも、違いがはっきりしているかどうかが重要です。
【場面2】話が「意見」や「お気持ち」の応酬になる
話し合いの場で、それぞれが意見を述べているのに、議論が前に進まないことがあります。この場合、対立しているのではなく、問いの種類が揃っていないことが多いです。
ある人は材料や前提について話し、別の人は仕組みや構造について話している。さらに、きっかけや目的の話が混ざることで、話が噛み合わなくなります。
ここで四原因を「問いの種類」として使います。今話しているのは、何でできているかの話なのか、仕組みの話なのか、変化のきっかけの話なのか、機能や目的の話なのかを整理します。問いの種類をそろえることで、議論は整理されやすくなります。
【場面3】「目的」を語り始めた瞬間、機能ではなく理想が語られはじめる
目的について話し始めると、「本来こうあるべきだ」「〜のために存在しているはずだ」といった意見が出やすくなります。その結果、価値観の主張になり、話が進まなくなることがあります。
この場面では、「何のために?」という問いを、そのまま使い続けないことが重要です。「どのような機能を引き受けているのか」「誰にとって、どんな役割を果たしているのか」と言い換えます。
たとえば学校であれば、評価する機能、居場所を提供する機能、選抜を行う機能、ケアを担う機能などに分けて考えます。そのうえで、どの機能が強すぎるのか、どの機能が不足しているのかを検討します。
目的因は、理想を述べるためではなく、現実の働きを整理するための視点として使う必要があります。
これら三つの場面に共通しているのは、調べたり考えたりしていないことではありません。むしろ、問いは立っているし、情報も集まっている。けれど、それを説明の形に組み上げる足場が弱い、という点です。
差をどう見るのか。どんな切り口で整理するのか。「なぜ?」を、どの種類の問いとして扱っているのか。
探究が失速するとき、問題になるのは態度ではなく、この足場です。そして、この足場をはじめて体系的に整えたのが、アリストテレスでした。
6.ソクラテスからアリストテレスへ——問いのあとに必要な“足腰”
ソクラテスは、問いの入口を整えました。 一方で、アリストテレスは立てられた問いが途中で崩れないように、説明として持ちこたえるための足腰を整えます。
・観察=「見た」ではなく「差を見る」
・分類=「整理」ではなく「切り口を立てる」
・原因=「犯人探し」ではなく「説明の要素を揃える」
探究が「それっぽい」に吸い込まれてしまうのは、だいたいこの足腰が弱いときです。逆にここが整うと、同じテーマでも、同じ活動でも、残るものが変わります。問いが、説明の形で残る。説明が残ると、次の問いが生まれる。探究が循環し始めます。
7.まとめ——「知りたい」を、説明の形にする

「すべての人間は、本性上、知ることを欲します。」
この一文は、人が何かを知りたがること自体を、出発点として認めています。子どもが「なんで?」と問い続けるのは、未熟だからではなく、人として自然な振る舞いです。それを大人が軽く受け流したり、途中で打ち切ってしまうと、探究はそこで止まってしまいます。
ただし、知りたい気持ちだけでは、探究は深まっていきません。観察で差をつかみ、分類で切り口を立て、原因で説明の要素を揃える。アリストテレスが残したのは、その地味で強い作法です。
次回はフランシス・ベーコンです。
アリストテレスが残した「観察→分類→因果」という説明の骨格は、探究を感想から引き離す強い足腰になります。ただ、骨格が整うと次の問いが立ち上がります。――その説明は、本当にそうと言えるのか。 ベーコンはこの問いを、方法として整理します。比較、検証、反例、条件整理。探究が、説明が一度まとまったところで止まらず、 その説明が他の場合でも通用するのかを確かめる仕方を取り扱います。



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