【西洋の古典からたどる「探究学習」の源流】第1回 問いを立てることから探究が始まる(ソクラテス)
- 山中裕太

- 1月15日
- 読了時間: 10分
更新日:1月22日

「私の仕事は、知恵を生むことではなく、他の人々がそれを生み出すのを助けることにある。」(プラトン『テアイテトス』149a〜150d)
探究がうまくいかないとき、その原因は「調べ方」以前にあります。問いが立っていない、問いが広すぎるということがよく起こります。便利な言葉だけが先走ってしまって、参加者それぞれが別のものを思い浮かべたまま話し合いが始まる。そうなると最後は、調べた量や発表の上手さで“それっぽく”まとめて、終わりということになってしまいます。
この探究の入口を整えるために、連載の最初にソクラテスを扱います。ソクラテスは「知識を与える人」ではなく、「考えが始まる条件を作る人」です。別の言い方をするなら、子どもたちの“産婆役”という立場の重要性を説きます。
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1.「産婆役」とは何か——教えるのではなく、思考の出発点を整える
ソクラテスは古代アテナイの哲学者として知られていますが、本人の著作は残っていません。私たちが触れるのは、プラトンなどの対話篇に描かれたソクラテス像です。プラトンは、ソクラテスの対話のしかたを「産婆術」として描きます。ここで扱いたいのは、相手の中に芽生えかけている考えが言葉になるまで支える、という産婆の関わり方です。産婆は、過程が落ち着いて進むように場を整え、状態を見取り、必要なときにだけ手を貸します。前に出すぎず、放り出しもしない。その距離の取り方こそが、この比喩の核心です。
ソクラテスが扱うのは、知識というより“考えを言葉にして確かめる力”です。教師が答えを先に示すのではなく、学ぶ側の中にある未分化な思考――まだ言葉にならない違和感や、噛み合っていない前提――を、対話によって外に出し、形にしていく。その過程を支えるのが「産婆役」です。
誤解しやすいのは、「産婆役=問い返して詰める人」になってしまう点です。産婆役は、相手の言葉の穴を見つけて追い込む役ではありません。問いは、相手を黙らせるためではなく、相手の言葉を増やすために使う。その方向を間違えると、対話はすぐに“論破”の空気になります。子どもは守りに入り、無難な言い方しかしなくなり、結局いちばん欲しかった「考えが外に出てくる瞬間」が消えます。
もう一つは、「相手の中にある考えを引き出す」という言い方を、「答えは本人の中に最初から入っている」と読み替えてしまう誤解です。ここで言っているのは、正解が内側に眠っているという話ではありません。未分化な違和感や仮説を、言葉にして、他者の問いに晒し、確かめ直せる形にする――そのプロセスを支える、という意味です。だから産婆役は“共感”だけでも、“放任”だけでも足りない。
要すれば、探究に必要な支援は、問いが立つところまで質問を通じて立ち戻し、立った問いを扱える形に整えることです。話が散りそうなら論点を立て直し、場が止まりそうなら言語化の足場を用意する。そういう「見極め」と「介入の加減」に、産婆の役割があります。
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2.探究が失速するのは、いつも入口です
探究がうまくいかないとき、つまずきはたいてい「調べ方」より前にあります。テーマは決まったのに、問いが立たない。立っても広すぎて、何を確かめればいいのかが見えない。あるいは「〇〇について調べる」ということに終始してしまい、作業は進むのに議論が深まらない。学校現場でよくあるこれらの困りごとは、子どもたちの能力というより、入口の整備が追いついていないことから起きます。
入口が整うと、その後の情報収集や制作が意味を持ちます。何を確かめるかが明らかであると、何を調べるのかが決まるので、集めた情報を「根拠」として扱える。逆に入口が崩れると、どれだけ活動を工夫しても、話は散り、結論は“それっぽい”のに、何が分かったのかが残りにくくなります。探究が積み上がらないのは、だいたいこの段階で起きています。
ソクラテスが扱ったのは、まさにこの入口です。問いを立て直し、言葉の意味を確かめ、前提を表に出し、反例で輪郭をつくり、比較で焦点を定める。探究を探究として成立させるための手がかりが、対話の中で繰り返し使われています。
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3.ソクラテスは「答える人」ではなく「問いを整備する人」です
ここでは、ソクラテスが対話の中で用いる問いの枠組みに注目します。現場で使える形に整理すると、次の四つです。
・その言葉は何を意味していますか(定義)
・それはいつも当てはまりますか(反例)
・それが成り立つ前提は何ですか(前提)
・似たものと比べると何が違いますか(比較)
この四つは、単なる「質問の例」ではありません。探究が言葉遊びや一般論の往復に陥らないための、最低限の確認項目です。 同じ言葉を使っていても、人によって指しているものが違う。範囲が決まらないまま話が広がる。結論だけが早く出て、何を確かめたのかが残らない。言葉が曖昧なまま進みそうになったら定義に戻る。一般論が強すぎるときは反例で主張の成り立つ範囲や条件を絞る。話が噛み合わないときは前提を見つめなおす。論点が散っていくときは比較で軸を立てる。ソクラテスはこの往復運動を、対話の中でしつこいほど繰り返します。
次の節では、なぜ彼がこうした問いの技術を必要としたのか――アテナイの議論の空気と、ソクラテスの違和感――から整理していきます。
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4.なぜアテナイで「問い」が必要になったのか

ソクラテスが生きたアテナイは、議論と説得が社会を動かす都市でした。民会や法廷で言葉が力を持つ。つまり、うまく話せることが、そのまま勝ちやすさにつながる場でもあります。そこで影響力を持ったのが、弁論術を教える人々(ソフィスト)でした。
もちろん弁論そのものが悪いわけではありません。ただ、言葉が「勝つための道具」になりやすい環境では、議論は中身よりも見栄えに傾きます。言葉は巧みなのに、何を言っているのかが曖昧なまま、納得感のない合意だけが先行してしまう。多数派を動かす言い方と、筋の通った説明は、必ずしも一致しない。ソクラテスの違和感は、そこにありました。
さらに当時のアテナイは、戦争や政治の変動も経験し、価値観が割れやすい時代でもありました。正義、善、勇気、節制といった言葉が、誰にとっても切実なのに、簡単には揃わない。だからこそソクラテスは、演説で人を動かすより、対話の中で言葉の意味と前提を締め直す方向に向かいます。対話が混線してしまう局面で、言葉が空回りしない条件を模索したわけです。
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5.ソクラテスから学ぶポイント
①「結論が出ない」から始める
ソクラテスの対話は、しばしば宙ぶらりんで終わります。議論の途中で、いったん自信満々に言ったことが崩れて、「あれ、うまく言えない」「そもそも定義できない」が残る。ここで大事なのは、これが単なる停滞ではなく、探究の入口が開く瞬間だということです。結論を急ぐと、私たちは“それっぽい言葉”で穴埋めしてしまいます。一方で、いったん立ち止まって考えてみると、何が曖昧で、どこが揃っていなかったのかが見えてきます。たとえば、言葉の定義がずれていたのか、暗黙の前提が食い違っていたのか、例外が混じっていたのか。答えを急いで埋めるより、いったん「どこが決まっていないのか」をはっきりさせるほうが、探究は前に進みます。言葉の意味なのか、前提なのか、範囲なのか。詰まっている箇所が見えると、「次に何を確かめるか」が一つに絞れて、探究の問いとして扱える形になります。
②問いは、答えを取るためではなく、思考を鍛えるためにある
問いが「調べれば答えが出る問題」として扱われると、探究は作業になりやすくなります。情報を集めてまとめることがゴールになって、言葉の意味や前提、条件の違いを確かめ直す時間が残りにくい。調べたら出てくる情報を集め、上手にまとめて終わる。もちろんそれも必要な技能ですが、それだけでは探究プロセスの循環が起きにくい。ソクラテスの問いは、答えを引き出すための質問というより、思考を動かすための操作に近い。たとえば「その言葉は何を意味するのか(定義)」「それはいつも成り立つのか(反例)」「どんな条件なら成り立つのか(条件)」「似たものとの違いは何か(比較)」。こうした問いは、概念の輪郭を太くし、暗黙の前提を表に出し、論点を固定します。探究が“ふわっとする”のは、だいたいこの作業が抜けるからです。用語・論点・範囲が未確定のまま進むので、一般論や感想が増え、結論はそれっぽいのに「何を確かめたのか」が残らない。問いの立て方を変えると、探究は「調べる」から「確かめる」へ移ります。
③矛盾を責めず、矛盾を扱う
探究の場で矛盾が出るのは、悪い兆候ではありません。むしろ、考えが動き始めた証拠です。矛盾は「言葉がまだ粗い」「条件が抜けている」「概念が混ざっている」ことを教えてくれます。だからソクラテスは、矛盾を“失点”として叱るのではなく、材料として扱います。
ただしここは扱いが難しい。矛盾の指摘は、簡単に「反論できない最終兵器」になってしまうからです。矛盾を見つけたとき、それを相手を黙らせる材料にしてしまうと、教室は一気に怖い場所になります。誰も言い切らなくなり、無難な言葉だけが増えます。 矛盾は、勝ち負けを決めるためではなく、「どこがまだ曖昧か」を確かめるために使うものです。相手を下げるのではなく、問いをもう一度立て直すために使う。そう約束できると、探究はきれい事のまま終わらず、ちゃんと深まっていきます。
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6.現場の「詰まり」をほどく:よくある場面
【場面1】テーマが大きすぎて、漠然としたまま終わる
大きなテーマは、それ自体が悪いわけではありません。ただ、そのまま走り出すと、「知っている話」「聞いたことがある話」「それっぽい正論」の応酬になりやすい。そこで入口でやることは、問いを“地面に降ろす”ことです。ソクラテス的に言えば、言葉の意味を確かめ(定義)、どこが争点なのかを見つけ(比較)、どの範囲の話なのかを決める(条件)。この三つで、探究は「大きい話」から「扱える話」に変わります。たとえば「環境問題」なら、「環境に良いとは何が良いのか」「何と比べて良いのか」「いつ・どこ・誰にとっての話なのか」を先に詰めます。問いが細くなると、調べる意味も、集める根拠も、ぐっと明確になります。
【場面2】話し合いが「分かる/違う」で止まる
「分かる」「違う」は、議論の入口としては自然です。ただ、それだけが続くと、結局は好き嫌いや勢いの勝負になります。ソクラテス的に効くのは、意見を増やすのではなく、意見を成立させる部品を揃えることです。つまり、意見の前に理由を出し、その理由が成り立つ前提を言葉にし、可能なら反例も一度置く。「なぜそう言えるのか」「それが成り立つのはどんな条件か」「例外はあるか」。この順番で問いを挟むだけで、話し合いは“感想の往復”から“考え直し”へ移ります。反例は相手を否定するためではなく、考えを強くするための確認です、という合意があると、場が荒れにくくなります。
【場面3】声の大きい人だけが目立ってしまう
対話を中心にすると、どうしても「話せる人」「言語化が上手な人」「コミュニティに安心している人」が有利になります。だから産婆役は、放任ではなく設計です。いきなり全体討議に放り込むのではなく、まず全員が考えを持てる準備体操の時間を用意する。書く時間を先に取り、ペアで一度整理し、口頭以外の表現(短文、図、カード、付箋)も許す。この“手前の支え”があると、沈黙は「考えていない」ではなく「まだ言葉になっていない」状態として扱えるようになります。産婆役がしているのは、答えを言うことではなく、思考が出てきやすい場の条件を整えることです。
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7.まとめ——産婆役としての教師/ファシリテーター
ソクラテスから学べるのは、探究を探究として成立させるための入口の整え方です。言葉の意味を確かめる(定義)。見えない前提を表に出す(前提)。例外に当たって輪郭をつくる(反例)。似たものと並べて違いをはっきりさせる(比較)。この四つが入口に入るだけで、探究は「調べてまとめる」から、「確かめて、考え直せる」へ少しずつ姿を変えていきます。
そして、その入口づくりを担う教師やファシリテーターに求められるのは、万能の答えを持つことではありません。むしろ、子どもたちの中に芽生えかけている考えが、言葉になり、問いになり、もう一度確かめられる形になるまでを支えることです。言い換えるなら、前に出すぎず、放り出しもしない距離で、場を整え、問いを返し、論点を固定し、必要なときだけ手を貸す。「産婆役」という比喩は、その加減の技術を指しています。
次回はアリストテレスを扱います。ソクラテスが「問いの入口」を整備する人だとすれば、アリストテレスは、観察を“説明”へ変える骨格を整えた人です。印象や感想を、分類と因果で語り直せるようになる。探究が「それっぽい」から一段抜けるための、次の足場を見にいきます。


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